
an apple
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私は、いくつかの窯を使って作品をつくっています。
ある窯場には、陶芸家の方が何人かいらっしゃいます。
その一人が、実家から林檎を持ってきてくれて。頂きました。
とても美しいと思いました。
なので、つくりました。
つくりだすと、意外になかなかおもしろくて。
写生みたいな、静物立体素描みたいな。
ちょっと、デザイン・工芸科の受験生って、こんなかなーって思ったり。
生き物、自然界のものと言えば良いのでしょうか。
そういうものを観ながらつくるのもおもしろいです。
私は、その後しばらく、ピーマンやらナスやら鰺の開きとか蟹とか…作り続けることになりました。
素材的にそっくりに創れない部分もあるし、そっくりに創ってしまうと本物らしく無くなってしまう箇所があったり。どういう条件のときにリアリティが高まるのか。
なにか「これは」という思い入れみたいなものがあると創り続けますが、ちょっと創ろうと思って買ってきても、たいてい創る前にほとんどは食材と成ります。
観ても観ても飽きないっていうような高揚するような好奇心の調子が良いときがいい。
写生のモチベーションをいかに高めるか…みたいな。

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この建物は内部を水が巡る構造になっています。
水を管理しているのはひとりの老人です。
朝夕、二回、白い通路を歩いて、水を確かめます。
最初の登り口は垂直の壁なので緊張します。
※信楽で制作した作品。
織部を荒い土の中に練り込みました。

白い岩魚
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岩魚釣りの師匠がいます。
しかし、一度も一緒に沢登りに行ったことはありません。
口頭で、いろいろ話してきかせていただいてます。
それも、釣りの話はほとんど無くて、
師匠が語るのは、
山菜とか食べ物の話とか、自分の仕事の大変だった話だとか、京都や奈良の社寺の話だとか、林道を車で走って楽しくて延々走って迷った話、近所のスーパーはどこが鮮度が良いか、とかです。
釣りの話は、ほんの少ししかしてくれず「ほな、今度いっしょに行かなあかんな」という約束だけはいつもしてくれます。骨酒用にと岩魚を授かったことはある。
私自身は、山に登ったついでに釣るとか、そういう感じです。
沢登りも技術が無いので、簡単なら楽しんで歩けますが、厳しい登攀そのものは避けたいです。滝は仕方なく登ってます。夏とか晴れてると滝の中心を登るのも気持ちいいですが。一人で高い滝を前にすると、とてもイヤな気持ちになります。
ずいぶん前の話になりますが、黒部の源流部を歩いてるときに、そのとき竿を担いで歩いていたのですが担いでる竿の毛針が勝手に風になびいて、空中をフラフラしてて、その毛針に岩魚が釣れてしまったことがありました。肩がガクンとなって。
沢通しに遡行して真っ暗に成っても岩魚が釣れてきて。暗闇に毛針を投じて「1,2,3」で手首を返すと釣れてて。昼間は、淵に並んでる岩魚を見ながら釣るのでタイミング良すぎて竿が折れました。
ガスがかかってきたときは、周囲数メートル先が真っ白なので釣った岩魚が白いカーテンの中から飛び出てくるようでした。足下は見えるので水の流れで方向を確かめて進みます。
かつて山越えで入っていた職漁師さんたちのことを思ったりしました。
道無き道を何日も歩いて寝泊まりして大変だったと思います。
岩魚は、山女魚とは、違う魚のような印象で。
山女魚よりニュルニュルクネクネしてる。で、山女魚はコリっとした感じで断面形が四角っぽいけど岩魚は丸に近い感じ。山女魚は、模様や色が美しい。潜って見てみたがやっぱり美しい。味も山女魚の方が美味しいような気がする(※)。岩魚は潜って見たことがありません。なんでかなと今思いましたが、岩魚を釣るときはたいがい山行の一部なので水中メガネとかシュノーケルとかは重く成るので持って行って無かったからだと思います。それに岩魚が居るような淵に飛び込むと、なんか居そうと言うか、流れに吸い込まれたらイヤだなとか…私は、とても恐がりなので思う。
怖いと言えば、夜、沢でテントの中で一人で寝るのも怖い。
私は焚き火が好きなのですが、ひとりで焚き火の横で寝たことがない。かならずテントに入って寝る。それでも小心者なので怖いということです。
ん~、とても勝手だが、昼は自分が見ている風景内に人が居ない方が良かったりもする。
昔、装備を軽くするためか、私たちの仲間は食料計画に真面目に「岩魚」って書いてた。釣れなかったらどうするのかって計算は無し。
で、約束通り釣れたんだけど、雲ノ平に行くまでに岩魚は腐ってしまって。もったいない話ですが。
私たちが後続で富山側から食料を荷揚げするまで彼等はひもじい思いをしていました。小屋の高価な食事を何度かしたそうです。
当時の山の仲間というのは、全員彫刻科の学生でした。
そのころの、彫刻科ってラグビーやるか山登るか、あるいは水泳部って感じだったと思います。私は、ラグビーやるような筋骨無いし、山岳部やるような根性無いし、水泳部で痩せた貧弱な身体をさらすような恥ずかしいことできないし。でも、島に行きたかったので水泳部に入りました。島合宿には積極的に行きましたがプール練習には一度も参加していません。
山岳部の人とは一緒に何度も山に行きましたが、私は、ぼっか訓練とか統率とかスケジュール行動がイヤだったから山岳部には入れなかった。自分が全体の統率を乱すのもイヤでしたが、自身が景色の良いところでは何日も居たかったから。
私は子どもの頃、山にすみかを掘ったり、どろんこに成るのとか泥を触るのは好きだったけど、雨の日にサッカーとかラグビーをやる根性は無かった。
今回、この作文は、ぜんぜん、彫刻の話では無くなってしまいました。
写真は、関西の某沢
瀬の石の綺麗なところ、流れの光が美しいところに
白い岩魚を置いてみました
※※
岩魚が不味いと言ってるのでは無いです。
岩魚は美味です。
刺身も美味しいです。山には山葵も持って行きましょう。
竿は要らないでしょう。岩魚は手づかみで捕まえましょう。私は山女魚しか捕ったこと無いですが、きっと岩魚も手づかみで獲れると思います。
岩魚は、一人3匹も釣ると、お腹一杯に成る。
かまどをつくって遠火でゆっくりと焼きます。
魚を焼いた枝をしゃぶると美味しいです。
◇
沢の焚き火は至福です
沢の音 風 匂い 夜空
なにもかもが美しくて ため息がでます
って言うか 何回も何回も呼吸しててもぜんぜん飽きないです
って言うか 意識的にしてるのは最初の数回

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魚で、思い出したのですが。
子どもの頃、毎日のように近所の川に遊びに行ってました。
その川は子どもの足でも1分くらいの距離でした。
山もすぐ近くで、六甲山の登山地図の中に家があったので。家から歩いて山に行けてました。
って妙な言い方ですが、山って「歩く」ものですから。
でも、都会に住んでしまうと山に行くのには電車に乗ったり車で行くとか、そのような事が当たり前みたいに私自身思うように成ってしまったということだと思います。
海にはちょっと距離があったので自転車で行ってました。
川は、源が低山なので岩魚はいませんが、たいがいの川魚は居ました。
上流に滝壺があって、水は透明で周囲の木々が写り込んでグリーンで、そこに子ども達は飛び込む。私は恐がりなので別のルートからそろそろと水に入っていた。
その滝壺には魚がたくさんいた。ほんとにたくさんだ。
子ども達は、そこで魚も釣った。
大きくても20センチ無い魚です。
私は近所の駄菓子屋で買って貰った小さな針を使ってました。
だけど、私の父は、マスを釣る大きな針しか持っておらず、その先の方に餌を小さく付けて「これでいいんだ」と言って、釣っていました。実際に普通に釣れていました。私もやってみましたが、私には釣れませんでした。それに、父は、どこへ行ってもどこでも脈釣りしかしなかった。
滝壺の上流には、関西学院大学が岩登攀の練習に使っていた岩盤があった。
私は、そこを登るのは好きだった。もちろん直登みたいなんじゃ無いですが、岩を触る感じとか、スイスイ登るのとか好きだった。ほかの子どもは、ビビッてました。
「子どもは頭が重いから墜ちたら頭から墜ちるんだから、危ないことは止めなさい」と母親とかが言っていましたが、 今思い返すと、子どもは、身体が軽いという事がとてもスゴイ事だと思います。
岩盤をくり抜いた、子どもが、かがんでしか通れない水路もある。
コウモリの居る真っ暗な大きな洞穴もいくつもあった。
滝の下流には、橋があって、その橋から1分のところに私は住んでいて。
いつもその橋の下で数人で魚とりをしていた。
そしたら、同じ小学校の女の子たちが、下校時に橋の上から
「また、魚捕りしてんのん」って ワイワイ大声で言うんだ。
川は台風の時は氾濫して、学校が休みに成っても私は川を見に行った。
護岸がどんどん濁流に削られて行く。舗装道路が削られて道が寸断される。橋が流されそうになる。
私は、土砂降りの中、ドキドキしながら見入った。すごく怖かった。怖かったけど、ワクワクした。
近くの山には、大きな岩がゴロゴロしていて、その岩は、お城に成ったり砦になったり、ある岩は怪物や戦車になったりした。いくつかの同じ岩が、いろんな役割をしていた。そのときどきの私たちの遊びの物語に応じて岩や木々は「何か」に成っていた。
私たちは、風呂敷を頭巾にしたりマントにして、枝を刀にして、野山を駆け回っていました。
小学生低学年当時、テレビの「忍者部隊月光」というのが新しくて、私たちは忍者走りをしながら森を走っていた。段ボールを尻にひいて草の急斜面を滑った、私はこれも怖かった、斜面の先が絶壁なのだ。登るのはいいけど、墜ちるのはイヤだった。野や森の中にすみかをつくった。これは、地上型と土を掘って屋根を付けるタイプがあった。地上型も木漏れ日が美しかったが、土の中は、ひんやりとして気持ちよかった。土に顔を付けるともっと気持ちが良かった。爪の間に溜まった土が、三日月型で好きだった。丁寧に取って眺めた。上手く爪からとれたときは嬉しかった。空豆の頭にくっついてるみたいな。
東京オリンピックがあって、鉄腕アトムの人間がやってるのが放送されていたころ。
魚やザリガニをつかまえる子どもや カブトムシやらクワガタをつかまえる 水晶をとる 滝壺に果敢に飛び込む すみか適地を見つけ建設する…そういうヤツらが ヒーローだった。
勉強ができるとか、喧嘩が強いとか、スポーツ万能とか、男前とか…そういったヤツらを圧倒していた。ダントツにかっこよかった。
魚は、いくらとってもタダだし。
どんな遊びもタダだった。
物語や風景は私たちがつくった。
なにもかも、日常のあたりまえのことでした。
「探検行かへん?」っていうのが、遊びの誘いだったりしました。近所の森や山を歩くだけなのですが。で、粘土を掘って団子を作る、とか。粘土層の発見は、子どもにとって貴重でした。
ゲームソフトも巨大遊園地も無い時代の話。
その川は、やがて毒流しがあって、ウナギや大きなフナや、ほんとに宝物のような魚たちが白いお腹を見せて積み重なって死にました。すごい数です。この川にこんなにたくさんの魚が居たのか、と思ったほどでした。毒流しは一回では無くて徹底して、繰り返されました。ウナギや大きなフナなんか、私たち子どもには、めったに獲れない川の王様です。王者です。私は、びっくりしたしとても悲しくて。友だちたちと話してもなにもだれもわからない。大人のだれかが何かをしたってことです。
今でも思い出すと腹が立つし悲しいです。
私が大人に成ってから行ってみると、さらに生態系がすっかり変わっていました。
昔、居た魚がまったく居ない。そして昔そこには居なかった別の魚に成ってる。
ずいぶん上流まで登って、ようやく小さいのを見つけました。
私に、ずっといろいろなことを教えてくれた川です。
ある意味ともだちです。
って言うか、
川の許容力ってすごいと思います。
今の学校の規則では、たぶん、危なくて「行っちゃいけないところ」だらけだった。
校則で禁止したら、私たちは何処へも行けなくなっただろうし、遊ぶすべを失っただろう。って言うか、私なんか、川遊びが無かったらだれともともだちになれなかったかもしれない。
それに、もしも禁止したら、どこもかしこも立ち入り禁止にしなければ成らず、大人は子どもを管理監視しきれなかったと思います。
魚のたくさんいる川や、クマゼミの居る木や、綺麗なイモリの居る田んぼとかが、通学路なんだから仕方がない。そこを通らないと学校へ行けないんだ。
学校と家を行き来してるだけで私の家は動物園みたいに成っていった。
でも、蜂を飼おうと思って蜂の大群に逆襲されて顔が変形したり。
誘惑と危険がいっぱいの楽しい道だ。
ちなみに、父は、子どものころ、北海道のさらに北にある島に住んでいたことがあって、白夜の中、オショロコマを釣るのに熱中してしまい、村から大がかりな捜索隊が出たそうです。本人は、のんきに釣りに没頭してた。
父は、そういう話を得意気にします。って言うか、懐かしんでいました。村人も親も大変だったと思います。板きれでスキーを作ったり、金属を下駄に打ち付けてスケートした話とかも自慢していました。
これも、彫刻とは関係の無い話だったかもしれません。
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食用蛙を調教していた同級生がいて、私は感動して彼をこころから尊敬していた。
当時、食用蛙のことを私らは「しょっくん」と呼んでいました。
で
「なぁ、しょっくん釣り行かへん?」って誘い合って行くわけです。
通学路の関西学院大学の某池とかに。
で、大学生のお兄さんやお姉さんに、とてもとても可愛がられました。
関学の馬術部には、下校時によく行きました。
馬に乗せてもらったり。
そのときに馬術部のお姉さんが「馬って泣くんやで」って言ってました。
「馬の糞を踏むと足が速くなるぞ」と父親が言っていたので、私は通学時に馬の糞を見つけると大喜びで小躍りしながらバンバン踏みつけてました。
今思うと、変だったと思います。
でも懐かしいからいいです。
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GATA・pishi・mk/1というタイムマシンがある。
これは、その重要なパーツのひとつです。

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写真が小さくて解り辛いかと思いますが
白いレリーフのような風景
空から見たように
魚市場の彫刻 広場の彫刻 白い集会所 花器につかえるようなオブジェ など
椅子の背後には器の彫刻が並べられています

茶箪笥
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直方体白化粧花器
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港の家
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港の家 海辺
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