私が創る作品は 空想妄想幻想
だけど リアリティは いつも欲しいと思っています。
作品が「単なるファンタジーに成りたくない」という思いがあります
どこかにありそうで どこにもない建物。だけど、体の何処かで知っている記憶がある 初めてなのに懐かしいような こうだったかも知れない こうあって欲しい…「現実味のある空想」ができればと思います
想いを 鳥のとぶたかさから俯瞰する そうやって脳のなかの世界を具現化してゆきます
ときを止めないことによってリアリティはうまれる
旅をつづけること
旅をつづけるためには
目覚めたまま夢をみること 眠りながら正気で起きているようなこと
想い出せそうで想い出せないこと、もしかしたら真実はこうだった「かもしれない」…そういう感じの形を創りたい。「像を結ぼうとすると 消えてしまう」ような…でも、たしかに「在る」、ほんとうのこと。
子どものときに ほんとうに観たのに、大人に成ってそこへ行ってみると、無かったような。「子どもにしか見えない」ことのような。でも、それは「在る」でしょう? ほんとうのとでしょう?
どういうことかというと
鳥のとぶたかさから眺めた街並みは たぶん このくらいの大きさ
滑空して徐々に家に近づく
窓辺に休むと 食事の用意がされている テーブルと椅子
其処は此処では なかったか
その器が まさに此処にあるから
ここは あのまちと つながっている
9月10月の和歌山展覧会では しろいまちで実際に 古くから使われてきた器たちを展示します
おばあさんのお母さんのおばあさんが使っていた器 このうつわは孫子の代まで使われてゆきます
ここを 今を すこしずつ変えられないだろうか
貧乏でも豊かにおおらかに人生を過ごせないものだろうか
ここに この器があるということは
この世界が ほんの少しだけ ほんとうに変わったことには 成らないだろうか
やがて実物大のテーブルを創り 家が街が できてくる
それでも こちらがあちらに成るのではない あちらのような風景が望みではない
あちらのような気持ちで こちらでも過ごせたらなあ と思うだけ
物を壊さず大切にして 古い物を残し長く使う
物は頑丈に強固につくるから壊れないんじゃない 丁寧に愛しく付き合うからいつまでもそばに居る
そして 一日は ずっと長くなる
しろいまちのひとびとの暮らしについて想っています
この器は たぶん こんな感じかもとか おもいながら調理して盛りつけてゆきます
「あちらの器をこちらでつかう」
実物大で現実生活として行うことによって「あちらとこちらの通路」ができてくる
そして
思い浮かんだ断片が繋がれば お話しが できてくる
だけれども
「あり得ないな」とか「イマイチだな」とおもって 話をやめることが多い
まあ 想像の世界だから 空想妄想幻想なのだから すべてはウソなわけだけど 丸々ウソではつまらない 理想は理想のままにだれの中にもあるのだから 雲を掴むような話では夢は夢のままだから。
誤解を恐れずに言えるのであれば、創作にとって大切なことは「夢は壊れるもの」というのが大原則だとおもいます。
だから 意識的にイメージを補強してゆかなければ 放置された夢は記憶の彼方に埋没してゆく
「ありそうで無い けど どこかにはあったかもしれない あってもおかしくない どこかでなにかのはずみで 今はもしかしたらこうだったたかもしれない」…というような感じを連続できたらいいなとおもいます
「いにしえ」というニュアンスの単語が、ほしかったのですが
「ancient」としました
邦題は「とり の とぶたかさ」です
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
世の中は風化してゆく出来事で溢れているかもしれない
しかしながら ときとともに輝きを増す記憶は糧となるだろう
素晴らしきことは いつまでも新しい
いつも自らとともにあるから
なにも古いものなどない
石垣も家も
人が住めば家は息をふきかえす
巷では 遅れている人とか 古い人とか言うけれど
遅れているひとはいない 人は古くならない 古いひとなどただのひとりもいない
ひとは傷つく
ひとは老いる
けれども なお人はあたらしい
だれひとり時代遅れにも成らず 老若男女もれることなく だれもがみんなあたらしい
今よりも一秒未来を生きている人も 今よりも一秒過去を生きている人も ただのひとりもいない
ときとしてわたしたちはバラバラに居るように見えるけれど
たった今産まれた赤ん坊も 明日旅立つ老人も
世界中のすべての人が寸分の違いもなくまさに時代の最先端を一緒にいきている
だから 人は いつもあたらしい
あのまちのじかんと 此処の時間はちがうのだろうか
たぶん それぞれのひとには 絶対に壊れないじかんというものがある
海たる海 空たる空 は いま ここにある
記憶をたぐるときに光がやってくる
古からの光に足下を照らされて いまを生きている
もしも 今 失うことがあるとすれば
失ったものをそのままに知ることによって
この記憶を光にして また未来へと投げることはできないものだろうか
人々は 光や水を大切にしてくらしている
此処は 光に溢れ 太古から昏々と泉が湧いている
涸れることのない水源
「おいしいみず」 これは 世界の宝だ
光や水を称える祭りが いたるところでおこなわれている
水の人が踊ると 太陽の中に 雨が降る
創作するということを うまく言葉にできません
意識の深度と言うか…「何を見てきたか」みたいな 夢の中から「何を持ち帰ったか」とか、創作にはそういうことが大切なような気がしています。
息の続く限りギリギリまで潜って暗い海底を探る やっと浮上して手のひらを開くと「見たことも無い貝殻」が手中に在った みたいな、
そういう 気持ち。
偶然手にしたような貝殻を また拾いたいと思って、とか、「もっと綺麗な貝があるかも」と思って また潜る。海は怖いけど。海のことをよく知らないし。けど、海底に「何か」が在ることを 知っている。そこを信じ切れるかどうか。そういう気持ちの想いのところで 生還するか溺れるか…ってことに成るのかも知れない。
表層を遊泳するのでは無く、潜ること。
自己の想いの深淵へとダイブしてゆく
なによりも 自らの視界をクリアにすることを目指す
より深く潜り 「なにか」を掴み取って現世へ生還できた者が創作の続行を獲得する